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キャリアを手放した私が、過去の揺らぎを整えるまで―マインドフルネスで“今ここ”に帰る心の習慣

石と桜



春の知らせと、心のざわつき

春が近づくと、異動や昇進、退任などの話題がニュースでも耳に入るようになります。

かつての職場や知人の名前がふと出てきて、なんとなく心が引っかかることも。


異動、昇進、退任、そして新しいスタート。

自分とはもう関係のない場所のはずなのに、

SNSの投稿や人づての話に、ふと心がざわつく瞬間があるのは、私だけではないはずです。


あの頃一緒に働いていた仲間が、

組織の中で新たな役割を担っている姿を見て、

心のどこかで、こんな問いが生まれます。


「もし、あの場所にいたままだったら…私はどうなっていただろう?」


選んで手放したはずだったのに

私がその場所を離れる選択をしたのは、ほんの数年前のことでした。


誰かに決められたのではなく、

自分の意志で「ここまで」と線を引いた――

そう思っていたはずでした。


あの頃、私は自分史上最悪と言ってもいいような体調不良が続いていて、

毎朝めまいでふらつき、

ただ起きて会社に行くだけで精一杯という日々でした。


「これ以上は無理だ」と心が叫ぶのを、

ようやく認めてあげたあの選択は、たしかに必要なものだった。


…けれど、時間が経ち、体調も少しずつ戻ってきた今、

あのときには押し込めていた想いが、静かに浮かび上がってきたのです。


「私にもまだ、できることがあったんじゃないか」

「もう少し、あそこで頑張れたのかもしれない」


そんな声が、心の奥でゆっくりと渦を巻きはじめるのです。


誰にも言えなかった“家庭と仕事の責任のはざま”。

私がその場所を離れる決断をした背景には、

ただのキャリアや昇進の話だけではなく、

自分の体調不良や、突然降ってきた親の介護といった「見えない責任」が重なっていました。


遠すぎないけれども、近くでもない距離に住む親の体調が急に悪化し、

予定していた仕事を何度も変更せざるを得ない日々。

でも、どれだけ事情があっても、仕事は待ってくれません。


迷惑をかけたくない。期待に応えたい。

そう思って、私は心と体の限界ギリギリまで、ずっと踏ん張っていました。


けれど実際は、私自身も相当無理をしていた。

毎朝のめまいやふらつきは、そのサインだったのに、

「自分を優先すること」が、どこか悪いことのように思えて——

気づいたときには、もう限界を超えていたのです。


きっと、介護に限らず、子育てや家庭のことを抱えながら働いている方の中にも、

こんなふうに、自分の「しんどさ」に後から気づく方がいるかもしれません。


キャリアパスと“ファストパス”の錯覚

組織というのは、基本的にピラミッド型で、

年功序列や慣例、さらには組織間のパワーバランスなど、

さまざまな力が複雑に絡み合っています。


その中では、人それぞれに「キャリアパス」が用意されていて、

途中で止まらず、滞りなく進む“選ばれたルート”のようなものも存在します。


そのレールに乗っていれば、

ある程度のスピードで階段を上っていける――

そんなイメージを、私もどこかで信じていました。


たしかに、少し遠回りした時期もあったけれど、

私はいつの間にか「自分もそのキャリアパスに乗っている」と思い込んでいたのです。

昇任や異動についても、「いずれは」と、淡い期待を抱いていました。


今思えば、私は、自分がキャリアアップの“ファストパス”を持っているつもりでいたのかもしれません。


けれど、それが本当は違っていた――

その現実に気づいたのは、退職を決意する少し前のことでした。


過去には数枚配られたはずのそのパス。でも気がつけば、もう私には、次のチケットは配られる予定はなかったのです。


頑張れば報われる、そう信じていたレールの先に、

私が望む場所はなかった。


そのとき、静かに、でも確かに。

「私はこの場所では、選ばれる側ではなかったんだ」

そんな感覚が胸に落ちてきて、私はそれを飲み込むしかありませんでした。


それが、私にとっての――終わりの始まりだったのです。


組織の競争

虚しさが教えてくれた、“まだ終わっていない”ということ

仕事では評価されていたと思います。

でも、組織人としての私は、

きっとどこか「うまくはまっていない」存在だったのかもしれません。


特別扱いを求めていたわけではない。

でも、もっと信頼し合える関係で、

もっと対等な

後輩や部下の立場であったとしても

敬意のある関係で仕事がしたかった――


その願いが、どこか満たされないままだったのかもしれません。


「しかたなかった」と思っていた。

「できる限りはやった」とも思っていた。


でも、今あらためて感じるこの虚しさは、

ただの後悔ではなく、

「まだ何か、自分にできることがある」

という、自分の内なる声なのかもしれません。


今だからこそ、やさしく整える

誰かの活躍を見て心が揺れる日があってもいい。

過去を振り返って、胸がちくりと痛む夜があってもいい。


でも、それはきっと、私たちがちゃんと真剣に生きてきた証。


あの頃は本当に、いろんなものを抱えて、

ただ毎日をやりくりするだけで精一杯だった。


そんな過去の自分を、今こそやさしく抱きしめてあげたい。


過去に戻ることはできないけれど、

過去を受け入れて、そこに敬意を払うことはできる。


誰かと比べてしまった日も、

前を向けなかった日も、

ぜんぶ抱きしめて、こう言ってあげたい。


「よくやってたよ、私」

「あのときの私がいたから、今の私がここにいるんだ」


そうして自分を抱きしめて、マインドフルネスにやさしく整えるのです。

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